大正3年強羅公園の造成工事をはじめ、観光地・箱根の創成期に大いなる貢献を果たした先代の勝俣勘太郎。その遺志を継いで、箱根の開発に生涯を捧げ、今日の勝俣組の発展を築いたのが二代目・勘太郎(以下、勘太郎)である。
箱根は元々江戸時代に関所が設けられて以後宿場町としてにぎわってはいたものの、険しい自然にはばまれ、インフラが立ち後れ気味であった。勘太郎は“自然を守る”ということと“放っておく”こととはまったく別物であるという考えのもと、美しい箱根自然を守り生かした上での観光開発を説き、箱根の整備に多角的に取り組む事になる。特に道路・鉄道工事や架橋工事といった交通網の整備になみなみならぬ情熱を注ぎ、町の発展に大きな貢献を果たす。また、学校教材の寄付や無償での校舎整備などを通じ、箱根町の将来をになう子供たちの教育環境の充実にも力を尽くした。
こうした勘太郎の地元に向ける愛情と自由闊達な人柄、そして強烈な事業家精神は従六位勲五等瑞宝章叙勲などを通じて広く社会的に評価されているところであり、勝俣組の社風としても今なおしっかりと受け継がれている。